理論と感覚


突然ですが、良く巷(ちまた)では「ドライバーのタイプは理論派と感覚派に別れる」なんて言われていますね。

かくいう私は、こんなHPを作っておいて言うのもなんですが、自分では感覚の方が優位なタイプだと思っています。
特に昔は、理論はむしろ後付で考えるタイプでした。 まあ、元々感覚派過ぎたので理論を考えるように心がけたのが、物理を導入するきっかけだったような気がします。
もちろんHPには書かないだけで、現在でも自分の中に感覚的なものは多くあります。
なぜそれを書かないかというと、感覚というのは他人には伝わらないからなんです。 もし感覚の話を文章にしても、読んだ人によってその受け取り方が十人十色になるんですよね。
例えば、S字を「波のように走る」と書いても、そもそも波のイメージも人それぞれですよね?サーフィンをやる人なら海の波を思い浮かべるかもしれないし、電気回路の設計者ならオシロスコープに写る波をイメージするかもしれません。 その他にも、音も光も全て波ですしね。

そしてその走り方の解釈に至っては、全く同じになることはないと言っても良いでしょう。 10人居れば、きっと10通りの解釈になるはずです。
対して物理学を始めとする科学は、10人が見たら10人が同じものをイメージして理解できるものなんです。
科学が万能だとは思っていませんが、少なくとも科学は全ての人が同じ価値観やイメージを共有するための、唯一と言って良いツールなのです。
物理法則は、国や民族や時代や育った環境によって変わることはありませんからねっ。
だから物理学を使うことは、他人に説明するためにはとても適した手法なんです。

しかしながら……、実際に人間が車を運転する時に理解できるのは、やはり感覚なんです。
例えば運転中に、「次のコーナーは200ニュートンの踏力でブレーキペダルを1.25秒踏み、その0.12秒後に毎秒2π/4ラジアンの角速度でハンドルを180度切り……、」何て考えて運転している人は居ないですよね?(笑) もちろん、やれと言われても不可能でしょう。
数値や数式をそのまま操作にすることは出来ません。 そう、我々はコンピュータではないのですから。

つまり、どんな理論であっても実際の運転時には最終的に自分の感覚に落とす、別の言い方をすれば「感覚に変換」しなければならないのです。
今回は、そんな理論と感覚の関係についてのお話です。


始めに言っておくと、人間の感覚というのはそれほどいい加減なわけではありません。「コーナーに入るスピードが速過ぎる!」と思う時には実際に速過ぎることが多いし、「ブレーキ開始が早すぎた!」と思った時には実際に減速し過ぎなことも多いでしょう。「何かコーナーを遠回りしているなあ」と思う時には、実際に遠回りしていることも多いでしょう。
まあ人間の感覚というのは、概ね、当たっているんですね。
では何故理論が重要かというと、人間の感覚は正に「大体しか当たってない」からです。 そこには無駄や、詰められる要素が多く残っているんです。

また中には、動画でも言いましたが、ハンドルを切った状態でブレーキロックしているのに感覚的に怖くてブレーキを緩められない、というような間違いも人間の感覚には有るでしょう。 そこで物理理論によって大体ではなく精密な最適解を見つけ、それを感覚に取り入れることによってもっと上の世界に行くことが出来る、というわけですね。
感覚が80%程度しか最適解に近づけないとするなら、理論を使うことで100%に限りなく近づけていくことを目指すわけです。

前置きが長くなりましたが、それではどうやって物理理論を感覚に変換し、運転に活かすかについて書いてみましょう。
実はこれは、少し難しいことなんです。

これを理解しやすくするために、まず始めに英語を日本語に変換、つまり翻訳する話をしましょう。
図1を見て下さい。 これは昔、私が英語を勉強する時に考えた図です。



図1 英語と感覚と日本語の三角図

少し話がそれますが、中学校で初めて英語を習う時には、それこそ「This is a pencil.」 といったことから習ったはずです。
Thisは「これ」で、isは「です」でaは「一つの」で、pencilは「鉛筆」であると。 つまり、単語の意味を英和辞典で引いてそれを日本語にするわけですね。 そして、翻訳した「これは一つの鉛筆です」という日本語の文章から意味を理解すると言った手順です。
これを図1で言うと、英語がCの経路からAの経路を通って感覚として意味を理解するわけですね。

感覚というと難しく聞こえますが、ようはloveを訳して「愛」となるなら、「愛」と言う言葉からイメージするものが、あなたの「愛」と言う言葉の感覚なのです。 これに正解、不正解はありません。
「愛」の意味は全ての人が分かりますが、実際に頭の中に有る感覚は十人十色ですよね?
これは、「青」でも「熱い」でも同じです。 その言葉を見た時にあなたの頭の中に有るイメージがあなたの感覚なのです。

そして英語の文章が高度になっていっても、学校の教え方は変わりません。 しかしながら、いわゆるバイリンガルの様な、英語と日本語がペラペラの人はこんな風に訳して理解していません(笑)。 バイリンガルの人はCの経路を通ることはないのです。
バイリンガルの人が英語を日本語に翻訳する時には、英語からBの経路を通りAの経路を通るのです。 もちろん、翻訳せずに理解するだけなら、Bの経路だけで終わりです。
例えばloveは「愛」と言う日本語を通らずに、直接感覚となるわけですね。 もちろん、複雑な長文になってもこれは同じです。

もう気づいた人も居ると思いますが、そうです、実は学校で教わったC→Aの経路はコンピュータによる機械翻訳の手法なのです。
コンピュータ翻訳の精度には限界が有るのは知ってのとおりですね。 この経路は効率が悪く、Bの経路を通るバイリンガルには決して敵いません。 ですがコンピュータには感覚がありませんから、これは仕方がないことです。
よって、人間である我々が英語を完璧にマスターしたければCの経路を通らないように意識するべきでしょう。
余談ですが、私はBの経路を意識すると英語が突然得意になりました。


さて、本題に戻りましょう。 実は、車の理論と感覚と操作の話もこれと全く同じなんです。
同じ様に図を書いてみましょう。



図2 理論と感覚と操作の三角図

今度は理論が英語、運転の操作が日本語に置き換わりましたね。 そして、英語の翻訳と同様にして、理論が経路Cを通って直接操作とすることは人間には不可能なのです。 強いて言うならこれは、コンピュータによる自動運転の経路でしょう。
つまり理論を理解して正しい操作をするためには、必ずB→Aの経路を通るのです。
実はこの時に通る感覚というのが非常に厄介なものなんですよ。 図2の理論と操作には正解が有りますが、感覚には上記の英語の例同様に正解がないのですから。 つまり、その人が上手く操作できる感覚が正解というしかないのです。
例えば「ハンドルを真っ直ぐにしてロックスレスレの強くて短いブレーキを踏む」、と理論的に分かっていても、実際に足でブレーキを踏む時の感覚は人それぞれですからね。
「 ブレーキを蹴っ飛ばす」、「ギュッと踏む」、「優しく押す」、「ジャガイモを踏みつぶすイメージで押す」、どれも上手く操作が出来れば正解です。(これは分かりやすい言葉で書きましたが、普通、感覚というのは殆どが言葉にすることは出来ません)
つまり、自分が理論通りにうまく出来る感覚を身につける事、脳の中にB→Aの経路を作ることこそが「運転の練習」の目的であり意味なのです。 よってその感覚を無視したドライバーも、或いは基本となる理論が無い、もしくは間違っているドライバーも最適値には程遠いことになります。
そして同様にして、A→B の経路でハンドルやペダル操作のフィードバックを感覚から理論に落とすことも重要です。
これは、どうしてこの様な車の動きが出たのかを、理論的に理解できることに相当します。
例えば「コーナリング中にアクセルオフにしたら頭が内側に入った」だと、経路Aで終わりです。 その後に、どうして頭が入ったのかを理論的に理解する所まで出来れば、このA→B 経路は完結しますね。

そして理論を感覚として染み付けるためには、理論によるイメージを心がけた反復練習が最も効果的です。

感覚は、一般に「コツ」と言われるものと近いものです。 そして、感覚は理論と比べて忘れやすいと言う特徴が有ります。
そんな時にも理論は、感覚を思い出すための良い付箋になるでしょう。


理論と感覚は不可分であって、相反するものではありません。
余談ですが、吉川英治氏の長編作「宮本武蔵」の中に、文武両道の意味について若き日の武蔵が説教を受けるシーンが有ります。

「文武両道とは、文と武の二つの道を同時に進めという意味ではない。二つを備えて一つの道だよ。わかるか武蔵?」

つまり車においても、理論派や感覚派なんてのは本当はどちらも未熟であって、二つを備えて一つの道、ということですね。


以上


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